システム開発者目線で『Winny』を紐解いてみる

先日、ラジオを聴いていた時、
ラジオのパーソナリティが、『Winny』を観に行った、という話を始めた。
おっ、と思って、耳を傾けていると、
「違法な使い方をされることが想像できるものを公開したことが100%無罪でいいの? という気持ちが拭えず、もやっとした」
という感想を述べていた。

聞いてまず感じたのは、
やっぱり技術のことがわからない人にはそういう感想になるのかぁ…、
という、悲しい気持ちだったのだけど、
「技術のわかる人vs技術のわからない人」
という壁を作るだけでは、何も解決しないよなぁ、
「もやっとする」っていうことは、
そのもやもやをスッキリさせる取っ掛かりが欲しいっていうことでもあるはずだよね、
と思って、
何が受ける印象をこんなにも変えるのか、と考えてみた。

そして、
「たぶん、前提として見えているものの違いが、
 Winny事件の捉え方を変えているのだろう」
と思ったので、そのあたりを紐解いてみようと思う。

* * *

研究開発というのは、過去の研究開発結果を受けて、
その課題を解決したり、あるいは問題点を指摘することで、
進められていく。
常に未完成。

研究開発は常に未完成

メディアで、
何かの功績を上げた研究者が一躍有名になってもてはやされたり、
研究結果に誤りのあることが判明した研究者が、
まるで犯罪を犯したかのように批判されたりするのを見たり聞いたりすると、
「どんな研究結果も、全ては未完成で、未来には否定されるかもしれないもの」
という大前提を理解していない上での言動に見えて、
それが賞賛であれ、批判であれ、いつももやっとする。
(誤らない研究者像を求めるなら、まずは『野口英世をお札の肖像から外せ運動』でも起こせばいいのに、と思ったりする)


さて。
Winnyは研究機関の開発ではなく、
個人が開発したものをインターネット上に公開したものなので、
一般的なイメージの「研究」とは異なるけれど、
本質的なところでは近しいと思う。

Winnyというシステムが、その匿名性を利用して、
違法ファイル共有に利用されるだろう可能性は、
もちろん、金子氏は開発時に可能性として想定していただろうし、
実際、公開後にそういう利用の仕方をしないようにメッセージを発しているし、
警察が家に来た時には、
Winnyを使った犯罪に関する捜査のために彼らが来たのだと捉えているし、
Winnyの公開を止めるように警察に言われた時には、あっさり承諾している。
「社会に迷惑をかけているから、公開を止めてほしい」
と、公的機関にはっきりと言われたなら、それを承諾する心の用意はあったのだ。
彼が否認しているのは、
「違法ファイル共有を目的としてWinnyを作った」
という点だけだ。

「そもそも、違法ファイル共有に使われる可能性が大いにあると自覚していながら公開するのがおかしいんじゃないか?」
というのが、「彼はやっぱり有罪じゃないか?」と感じる人の捉え方だろう。

だけど、システムというのは、実際に作って、使ってみてもらわないことには、
その結果は、わからない。
期待していた反応をもらえず消沈することもあれば、
作った人間がまったく意図していなかった面白い使われ方をされて、
嬉しい驚きをすることもよくある。
実際に作って、使ってもらって、反応を見て、
それを受けてブラッシュアップしていく。
システムは、人の反応を受けながら、育てていくものなのだ。


Winnyはその特性上、違法ファイル共有に使われる可能性がある。
だけど、それ以外の有意義な使い方をしてもらえる可能性も大いにある。
仮に違法ファイル共有に使われたとしても、
その問題の発生を受けて、自分以外の誰かが解決のためのアイデアを思いつくかもしれない。
自分の頭の中だけで、どれだけシミュレーションを繰り返したところで、
本当の結果はわからない。
だから、金子さんは作って公開したのだ。社会の多くの人達からのフィードバックを受けるために。

「それでも、公開後に実際に違法ファイル共有に使われて、色々な人が迷惑を被っていることが取り沙汰された時点で公開を取り下げるべきじゃないか?」
そう感じる人はいるだろう。

公開してみたら、違法ファイル共有の問題が実際に起こった。
じゃあ、それに対して、どういう手を打つのが最善か?
もちろん、「公開を取り下げる」というのも、一つの選択肢だ。
だけど、公開を取り下げてしまったら、それ以外の有意義な使い方をしてもらえる可能性の芽も同時に摘んでしまう。
だから金子さんは、公開を続けて、フィードバックを受けながら、
「従来とはまったく異なる新しい基盤の上で、著作権者が不利益を被らないためにはどういう仕組みにすればいいか?」
イデアを考え続けていたのだ。


私も、もしもこれが、システム以外の自分が門外漢の、
たとえば『品質保証がされきれていない石鹸が出回って…』
みたいな話だったら、
「え?品質が怪しいことがわかっている上で市場に出回らせたの?問題じゃない??」
という感想を抱いたように思う。

私たち現代の日本人は、何らかの製品というのは、
何処かしっかりした国なり企業なりの組織により、
しっかりとした検査や検証を経た上で、
安心安全に使えることが保証されたものだけが、
自分たちの元にやってくるべきだろう。
欠陥のあることがわかっているものが社会にアウトプットされるなんて言語道断だ。
という感覚を、どこか当たり前のように持っている。

Winny』という映画は、単にWinny事件に焦点を当てているのではなく、
もっと深いことについて、現代の私たちに警鐘を鳴らしている映画だと思う。

この映画の中では、Winnyのエラーだけでなく、
警察組織の「エラー」も扱われている。
コンピューターの中で動くものだけがシステムではなく、
この社会そのものだって、1つのシステムだ。
そして、社会システムの構成要素は、過ちを犯す可能性を常に秘めている私たち人間だ。
過ちを犯す可能性が当たり前に存在する人間を、
「決して誤ることのない人間」として無理矢理扱おうとすると、どうなるのか?

「隠す」「誰かを犯人に仕立てる」
それが、あの映画の中で描かれていたことだ。

人間は誰だって過ちを犯す。
それを『あってはならないエラー』として隠されて、
きれいで安心安全ですよ、と国に保証されたものだけが
自分たちの元にやってくるようになったら、どうなるのか?

エラーは自分たちの元にやってくる前に対処してもらうのが当然だと、
何をエラーとするか、エラーをどうするか、
の判断基準や対処を「誰か」に委ねて、
安心安全なものだけを享受することに慣れ過ぎていくうちに、
私たちは気づかないうちに、自分たち自身で、自分たちを取り返しのつかない事態に導いていっているのではないか?
そんな警鐘を、Winnyという映画は伝えていると思う。


私は、この映画を観て、
後に続く開発者たちのために、金子さんが無罪を勝ち取ってくれたこと、
そのために、彼の貴重な人生の時間を使ってくれたことに涙した。

どういうことか。

裁判というのは、大体、類似の過去事案を凡例として、そこで下された結果を基準に判決されると聞く。
だから、たとえば、Winny事件が有罪事例として決着した場合、
「社会に不利益を及ぼす可能性のあるシステムを開発した人間は検挙できる」
という判断基準を作ることになる。

私自身は、
「この世界に巨悪なんてものはなく、
 人間の無知と怠惰と狡さが集合体となった時に巨悪のように振舞うだけだ」
と考えている人間だけど、
その集合体が国と密接な組織だった場合には、
現在の社会システムに乗っかって甘い蜜を吸っている人間が、
彼らにとって都合の悪いシステムを作っている人間を葬り去るか、
あるいは監視下に置くための手段として、Winnyの有罪事例が使われる危険性もあったのだな、と、
映画を観ていて思った。

社会を変革しよう、と思って作られるシステムというのは、
言うなれば、今の社会の何かを壊すシステムなので、
現在の社会システムに乗っかって利益を得ている人たちが不利益を被る可能性のあるシステムだ。
(そうでなければ、それは社会を変革するシステムとは言えない)

だから、Winnyは、
著作権利者が不利益を被るという、
社会変革の初期ショック症状を引き起こしたわけで。

だけど、もしもあそこで、歩みを止めずに進めば、
著作を生み出している人たちに、きちんと利益の提供される仕組み、
JASRACなどに管理されるよりも、もっと自由で直接的に著作者たちに利益が渡る仕組みが、考え出された可能性も十分にあった。

私も開発者の端くれで、
自分のシステムを社会にアウトプットして、
社会を豊かにするための一助を担いたいと考えている人間だ。
もしも、私の作るものが、社会を変える可能性を秘めているとしたら、
それは同時に、誰かの不利益を引き起こす可能性も秘めているだろう。

だから、もしもWinnyが有罪事例として確定していたら、
私は自分の作るものを躊躇いなくアウトプットすることは果たしてできるだろうか?
それが、社会を変える可能性を秘めていればいるほどに、
誰かの不利益を引き起こす可能性もあるのだから。

私自身に関しては、誇大妄想だったとしても、
やはり同じように公開を躊躇する開発者は少なからず出るだろう。
そして、その中には、本当に社会を豊かに変革するための大いなる可能性を秘めたシステムもあるだろう。

だから、金子さんの勝ち取ってくれた無罪というのは、
社会に変革を起こす芽を潰させないための、
開発者たちのためだけではない、
この社会全体の未来に対して、大きな意義のあることなのだ。


「人や、人の作るものは、必ずエラー(間違い)がある。
 それを、『あってはならないもの』とする姿勢が、
 社会をより豊かにしていくための芽をつんでしまっている」
それが、『Winny』という映画の伝えているメッセージのひとつだと思う。

システム開発者というのは、良くも悪くも、エラーに慣れている。
昔は、
「リリース後にバグが検出されるなんて、あってはならない」
なんて言われていたのが、最近では、
「どれだけ頑張っても、絶対にバグは潰せないのだから、バグをゼロにすることではなく、バグによって誰かが困る時間を最小にするための仕組みづくりをすることが大切だよね」
という流れになってきている。

大切なのは、
エラーを弾いたり、ないものとして扱うことではなく、
人や、人の作るものは、必ずエラー(間違い)があるという大前提を受け入れた上で、
じゃあ、どういう形で解決していけばいいのか?
を自分たちの知恵を合わせて考える力を身につけていくことだと、
それが、最後の金子さんのVTRのメッセージの意味だと思うし、
私自身も、そう考えている。

現在、世界の数多あるシステムたちは、
オープンソースソフトウェアと言う、世界中の開発者たちが、
自分たちの作ったソースコードを無償で公開している資源を利用して開発されている。
「占有するよりも共有し合っていく方が、世界全体が発展していくよね」
という考え方だ。
システムが、ここ20年だけでも、ものすごい勢いで進化を果たしているのは、
コンピュータシステム開発の背景に、こういった思想が存在するからだろう。

映画Winnyの中では、星空が象徴的に何度か登場する。
金子さんが好きだったという宇宙。星空。

彼がWinnyというシステムを通して夢見ていたのは、
1人1人の人間が、1つ1つの星となって、
輝いて繋がり合って、無限に広がっていく。
そんな世界なのではないかと思う。

Midjourneyで作成(image of random network, spread out, black background, shining)