「変わってるね」との付き合い方

先日、知人たちと飲んでいた時、その中の一人が、
独立して色々やっていることについて、身近な人たちから、
「変わっている」「他の人たちはそんなことしない」
と言われて、理解されないことが辛かった、
というような話をしていた。

その場にいたのは、価値観の近しいメンツだったので、
「ここのみんなと会って、『同じような考えを持っている人たちはいて、別に自分が変わっているわけじゃないんだ』と勇気づけられた」
というような話の流れだったので、それはよかったね、なのだけど、
彼女の話を聞きながら、
(「変わっている」と言われることに悩む人間がいるのか…)
ということについて、私は興味深く考えていた。

私は、人から「変わってるね」と、よく言われる。
言われ慣れすぎて、気にならない。
私にとって、「変わってるね」と言われるのは、
「今日、お天気ですね」と言われるのと同じくらいの感覚なので、
「あぁ、よく言われますね」
と返して終了だ。

ただ、自分自身の過去を思い起こしてみたら、
私自身も一足飛びに現在の境地に達したわけではなかったことに気づいたので、
”私と「変わってるね」の付き合い方の変遷”をちょっと書いてみる。

小学生時代

自分がいつから「変わってるね」と言われるようになったのかは、よくわからない。
小学校の通知表には、一年生の頃から「マイペースな子です」と書かれ、
担任の先生が変わるたびに、同じことが書かれていたので、
言い方は違えど、似た雰囲気の言葉は、物心がつくかつかないかの頃には言われ始めていたのかもしれない。

「何をもって、『変わっている』と言われているのか?」
を考えたのは、小学校高学年の時だった。
その頃、初めて「友達グループ」というものに所属したのだが、
グループの子たちから、何かと言えば「変わってる」と言われ、
だけど自分の行動や言動の何が変わっているのか、さっぱりわからず、
そう言われ続けることに辟易した私は、考えたのだ。

そして、しばらく考えてみて、
「あぁ、これはただの多数決だな」
と結論した。

年齢的に、たぶん他の子たちの多くも、「初めての友達グループ」だったのではないかと思う。
だから、
「何をするにも一緒」
ということが楽しい時期だったのだと思う。
私自身も、新鮮な体験として、それを楽しんでいて、リーダー格の子に付いて回り過ぎて、「金魚の糞だ」と、からかわれることもあった。

ただ私は、
グループの他の子たちとは異なる選択をすることが、
ちょこちょことあった。

たとえば、みんなと一緒に遊びに行った時の昼食に、
ほかの子たちはみんなハンバーグを注文しているのに、
私一人だけ、明太子スパゲティを注文する。
そんなシチュエーションが、ちょこちょことあった。

そんな時に、
「やっぱり、Satoは変わってる」
と、言われるのだ。

自分が自分の好きなものを食べて、何が悪いのだ? 誰に迷惑をかけるというのだ?
と、その頃の私は、「変わっている」と言われるたびに悶々としていた。

最初に誰かが、ハンバーグを選んだから、他のみんなはそれに連なっただけだろうに。
最初の誰かが、明太子スパゲティを選んでいたら、他のみんなも明太子スパゲティを選んでいて、そしたら、私は「変わって」いなかったのだ。

そう考えて、
あぁ、そうか。これは、ただの多数決だ。
と気がついた。
正しいか、正しくないか、ではなくて、
単に、多いか、少ないか。
単に、私が、少数派になる局面が多いから、「変わっている」と言われるのだ。

そう気づいてからは、「変わっている」と言われても、
(はいはい、ただの多数決でしょ)
と内心で思って、流すようになった。


というのが、私の小学生時代の「変わってるね」にまつわるエピソードであり、
この時の結論が現在に至るまで続いてきたのだけど、
これを書きながら、少しだけ思ったことがある。

もしかしたら、
もしも私が「常にみんなと逆のものを選ぶ」人間だったら、
天邪鬼とは言われても、
「変わってるね」とは言われなかったかもしれないな、と。

私の行動基準は、
「みんなと同じものを選ぶ」ことではなく
「自分にとって魅力的なものを選ぶ」ことだった。
だから、みんなと同じものを選ぶこともあれば、
一人だけ別のものを選ぶこともある。

みんなと同じことをしていると思ったら、
いきなり、一人だけ異なることをして、
かと思えば、またみんなと同じことをする。

もしかしたら、友人たちは、私のその行動原理がよくわからず、
「なぜ、ここで、その選択をするの?」
と戸惑って、それが「変わっている」という言葉に繋がったのかもしれないな。
と、今これを書きながら思った。

中学・高校時代

中学からは私立に進学したので、友人関係は刷新されたが、
新たにできた友人たちからも、よく「変わってるね」と言われた。

しかし、既に、
「『変わっている』という言葉は、ただの多数決の結果に過ぎない」
と結論していたので、友人たちの言葉に悶々とすることはなかった。

ただ、
「この子、変わってるの」
と、友人の友人に紹介されるようになると、
(こう紹介されたからには、その期待に応えなければいけないのではなかろうか…?)
と、サービス精神旺盛な私は考えた。

それで、カラオケで他の子たちがPUFFYとかJUDY AND MARYとかを歌ってる中で、一人だけ中島みゆきを熱唱する等、「変わってる」だろう行動を意識的に取ってみた。
が。
まぁ、そういうことやっていると、単に滑るだけで、友人関係は良い感じに進展しないのだ。
そのことに気づいた私は、
(無理に「変わってる」人間の振る舞いをするのではなく、友人たちとの時間を楽しい時間にすることが大切だよな)
と反省し、友人たちといる時には、友人たちとの和を尊ぶ行動を心がけるようになった。
私的には、没個性を意識したくらいの振る舞いだ。

そうして無事、円滑な友人関係を構築して日々を過ごしていたある日、友人に言われた。
「Satoは、やっぱり変わってるよね」
………。

私はこの時、悟った。
どれだけ己を消しても消しても消しきれずに滲み出てしまうもの。
それがきっと個性というものであり、
私の場合、それがなんかよくわからないけど、人から「変わってるね」と言われる代物なのだろう。

(特に頑張らなくても「変わってるね」のご期待には添えられるし、没個性を心がけていても「変わってるね」と言われるのだから、普通にしていればいいんだなー)
「変わっている」と言われるかどうかは、自身ではコントロールできないことなのだ。
そう気づいた私は、それからは自然体でいるようになった。

それ以降

それ以降は、「変わってるね」という言葉をかけられても、
特にそれについて何かを思ったり考えたりすることはなくなった。
「変わっている」と言われる時もあれば、言われない時もある。
私自身は一貫して、自分がやりたいことをやっているだけなので、
相手から見た時に、それが「変わっている」と映ったり、映らなかったりするだけのことだろう。

冒頭の知人は、
会社を辞めて、オリジナルなキャリアを歩みだしたことで、
既知の関係性の人たちから、「変わってる」「普通はそんなことしない」等の言葉をかけられて、凹んでいたらしいのだが、
私が3年半前、会社を辞めて個人事業主として独立した時。

一人暮らしで住宅ローンも抱えている身でもあるので、さすがに親は口うるさく何か言うかなー、
と思いながら、会社を辞めたことを両親に恐る恐る伝えた時。返ってきたのは、
「あら、そうなの」
の一言だけだった。
私の方がちょっとびっくりして、
(あれ?私の言葉、聞き間違えてない?大丈夫??)
という顔をしていると、
「もうあなたが何をしても、私は驚かない」
と母は言った。
(なるほど。私の親を40年もやっていれば、慣れるんだな)
私は得心した。

そして、友人や元同僚たちの反応も、
「いいと思う」
「あぁ、ついに独立するのね」
「あなたらしいね」
「やっと、自分が会社員に向いてないことに気づいたんだね」
等々、
ちょっとくらいは驚いたり心配してくれてもいいのよ?
と、こっちが思うくらいの反応だった。

まぁ、要は、慣れなのだろう。
「変わってるね」と言われようが言われまいが、自分のやりたいことをやっていくことに慣れること。
そんな自分に、周りの人々が慣れること。

それが、「変わってるね」と言われ続けて云十年の私の、
「『変わってるね』との付き合い方」である。