映画『Winny』を観てきた

映画『Winny』を観てきました。

winny-movie.com

20年近く前、違法ファイル共有や情報漏洩の温床として、社会的な問題になったWinny
その開発者が逮捕されて、一審、二審で有罪判決、
7年かけて、ようやく最高裁で無罪を獲得した、いわゆる「Winny事件」。

「誰かが包丁で人を殺したら、包丁を作った人が捕まった」
という、おかしな論理がまかり通っていることに、
当時、首をかしげて、最高裁で無罪が確定した時には、安堵したのを覚えている。

日本の技術に対する無理解が、
こんな意味不明な事態を引き起こしたのだと思っていたけど、
それだけではなかったのだと、映画を観て知った。


「自分にとってプログラムが言葉なんだ」
映画の中で金子さんの言う言葉。

周りは、ぽかん、と、
天才の変人が何か変なことを言っているな、
という表情をしていたけれど、
実際に、プログラムは本当に言葉だ。

その人の書いたプログラムを見れば、技術の高低だけでなく、
その人が丁寧な人なのか、おおざっぱな人なのか、
思いやりのある人なのか、自分さえ良ければいい人なのか、
その人なりの想いや考えを込めてプログラムを書く人なのか、
とりあえず、動けばいいや、と適当にプログラムを書く人なのか、
そういったことが、よくわかる。

その人と直接言葉を交わしたことがなくても、
プログラムから、そこに込められた想いや思想が伝わってくることだってある。


開発者にとって、自分の作るものは、
自分の子供であり、思想そのものだ。

自分の思いついたものを実装したら、どうなるのか見てみたい、
実装して、何か問題が起こったなら、改善のための手を打てばいい。
そうやって、一歩ずつ、進んで、一歩ずつ、良くしていけばいい。
ただ、そんなシンプルで純粋な考え方だ。


映画の後半は、涙が止まらなかった。

自分の作ったものが問題を起こしていて、
その問題を解決するために、
たった2行のソースコードを追加すれば解決することがわかっているのに、
それができないことに対する、どうしようもない悔しさ。

自分のアイデアをアウトプットすること、
自分の作ったものをより良くすることに、
どれだけ自分の時間を使いたかっただろうか。

プログラマーにプログラムを書くな、と言うのは、
文豪に文章を書くな、と言うのと同じだ。
画家に絵を描くな、と言うのと同じだ。

「大人しく有罪を認めて罰金払って、プログラムを書く生活に戻った方がいいんじゃない?」
そんな言葉が、自分の内側や外側から何度も囁かれただろう。

だけど、そんなたくさんの悔しさ、もどかしさ、葛藤を抱えながらも、
最後まで闘い抜いて、無罪を勝ち取ってくれて、ありがとう。
あなたの貴重な人生の時間を、
後に続く開発者のために使ってくれて、ありがとう。

故金子氏に、ただ頭を垂れた。


<2023/3/29 19:30 追記>

この映画、ストーリーの構成も秀逸だと思う。

Winnyと直接の繋がりのない、もう一つの物語が並行で進められているところがね。

直接の原告の内幕は、最後まで憶測の域を出ないのだけど、
ひとつ離れたところにいる原告サイドの人のストーリーが並行で描かれていることで、
「たぶん、こんな感じで不正が常態化していて、原告サイドは麻痺しているんだろうな」
という推測を観る側に持たせる。

そして、「匿名性」の正負両方の側面。
匿名性の持つ、負の側面が強調されがちなWinnyだけど、
匿名性の持つ、もう一つの「守る」という側面。

「こういう人達を守りたいんです」
という金子さんの想い、思想が、
最後まで直接交わることのない、原告サイドのもう一つの物語を通して、
見事に観る側に伝えられているところが、本当に秀逸。

そして、
「こういう腐った奴らがいるから悪いんだ」
「こういう技術のわからん奴らがいるから悪いんだ」
という感想を抱くかもしれない観賞者たちに、
最後、金子氏ご本人のVTRで、メッセージが伝えられているところが、もう本当に秀逸。