"好き"と"関心"を巡る冒険 第二章 前編 vol.5

<前回のあらすじ>
管理部にいる同期から、
合併先の部署の人たちが想像していたのと全く違うことを聞き、
さらには合併先の部署への異動を勧められ、気持ちを傾けていく。

前回→"好き"と"関心"を巡る冒険 第二章 前編 vol.4 - Sato’s Diary
全話リストはコチラ


Aさんを取り戻すべく、私がドタバタしていたプロジェクトは、
2008年からの2年間、私がリーダーを務めたプロジェクトだったが、
このプロジェクトをやる中で、私は体調を崩していっていた。


最初の症状は不眠だった。
布団に入るも、足のむくみやら何やらが気になって、
毎晩、眠りにつくまで2時間くらいを要した。

そのうちに首に痒みが生じて肌が荒れ始めた。
ストレスが胃腸に来やすい私は、
胃腸の問題だろう、と思って、内科に行ったが、
特に問題はない、と言われ、
ひとまず処方してもらった薬を飲んでも
やはり症状は改善しなかった。

その後、皮膚科に行って処方してもらったステロイドは、
一時的に良くなるだけで、どんどん肌が薄くなっていくだけだったので止めて、
今度は漢方薬局に行ってみた。

けれど、体調は回復せず、
そのうちに全身に蕁麻疹が出始めて、
痒みで明け方まで眠れず、疲れ果てた頃にやっと少し眠れる、
というような日が続き、
やがて、真夏にも関わらず悪寒で震えるような状態になった。

そんな状態の中で、
私は、プロジェクトリーダーを務めていた。


仕事のストレスが原因だろう、とは思っていた。
だけど、理由がよくわからなかった。

2007年まで携わっていたプロジェクトと比べて、
その頃私が担当していたプロジェクトは、格段に平和だった。

終電やタクシー帰りが当たり前だった以前のプロジェクトと比べて、
遅くても21時には会社を出られたし、
圧をかけてくる先輩も、いきなり怒鳴り出す後輩もなく、
なんなら、若手人気No.1, 2の先輩社員のY崎さんとT子さんが
メンバーとして手伝ってくれていて、
周りからうらやましがられるくらいの状況だった。


その後、小康状態と体調悪化を繰り返しながら、
3年後、自律神経を調整してくれる整体師に出会って、
ようやく本回復に向かったことで、
自律神経の乱れが直接の原因であったことを理解した。

そしてその後、アンガーマネジメントの本を読んで、
怒りが交感神経を刺激して自律神経を乱すことを知り、
私が体調を崩した根本原因が、
あの頃の自分の中にあった怒りだったのだと、ようやく思い当たった。

 * * *

私がリーダーを担当していたのは、
災害時に現行システムをサテライトで継続運用するための
災対システムの開発プロジェクトだった。
大変だったプロジェクトをやり遂げて、新しい職場に移ってきた私に、
「基本的な開発は終えて、あとは最後に簡単なツールを作るだけだから」
そう前任者から言われて、引き継いだプロジェクトだった。

「現行システムの有識者たちに細かな仕様を確認して、
 ちょちょっとツールを作ればいいだけだから」
そう言われて引き継いだものの、
複数の有識者たちの言うことは一致せず、
同じ人でも日によって言うことが変わったりもし、
私は振り回された。
現行システムは、仕様書もろくに存在しない30年もののシステムで、
誰も全容をきちんと把握していなかった。

有識者たちに振り回されるだけで、
自分では何の判断もできないことに業を煮やした私は、
「ソースを読み解いて現行システムの仕様を調べるので、時間をください」
と課長に言って、30年もののシステムの
ぐちゃぐちゃに絡まり合ったソースコードを紐解き始めた。

f:id:satoko_szk:20211030181818p:plain

そして、ソースコードを読み解きながら、
有識者たちと仕様を擦り合わせていくうちに、
災対システムの設計に、根本的な欠陥があることに気づいたのだった。


災対システムを開発するにあたっては、
現行システムに対する知識が不可欠だった。
けれど前任者は、現行システムの仕様をろくに調べることもせずに、
適当に作り投げていってしまったのだ。

きちんとしたシステムにするには、完全に最初から作り直すしかなかった。
しかし、お客さんには、もうメインの開発は終わったことが伝え済みで、
それはできない状態だった。


その前任者は、
私が2007年秋まで携わっていたプロジェクトのリーダーを務めていた人だった。
2006年夏に私のチーム4名を残して、
リーダーと他のメンバーが全員プロジェクトから引き揚げた。
残された私が孤独と戦いながら奮闘していた頃、
プロジェクトから引き揚げたリーダーとそのメンバー達が、
この災対システムを開発していたのだ。

そして、それも最後まで作りきることをせず、
ようやくプロジェクトを終えて異動してきた私に引き継いで、
また別のプロジェクトへと去って行ったのだ。

 * * *

「Y川さん、今期、最高評価だったらしいよ。すごいね」
同じ職場にいる1つ上の先輩のT美さんが声をかけてきた。
災対システムを私に渡して去って行った元リーダーのY川さんが、
異動先のプロジェクトで成功を収めて、最高評価をもらったとのことだった。

その頃の私は、成果評価の結果にさして興味はなかった。
他人からどう評価されるかよりも、
「自分が自分をどう評価するか」
それが一番大切だろうと思っていたから。
だから、自分の評価結果も、他人の評価結果も
あまり気にすることはなかった。

だけどこの時だけは、心の底から腹が立った。

大変なプロジェクトからは、うまいこと言って逃げて、
逃げて逃げて、その先でうまくやった人が評価される。
そんな会社でいいのか。

(その評価でもらったお金を、
 全部こっちのプロジェクトに寄越しなさいよ)
そう思った。

もう予算のないプロジェクトの開発費用を
課長が別のプロジェクトから工面することで、
私たちのプロジェクトは、
彼の残していったシステムを、少しでもマシなシステムにするために
何とか開発を続けていた。

 * * *

私にとって、自分が開発するシステムは
子供のようなものだった。
愛情を注いで、育て上げていくもの。

だけど、このシステムは、
どれだけ頑張って愛そうとしても愛することのできない、
そんなシステムだった。

やればやるほどに、どうしようもないことがわかっていくシステム。
どれだけ頑張っても、"マシ"にすることまでしかできない。
決して”良いシステム”にすることができない。
胸を張ってお客さんに提供することができない。
そんなシステムだった。

苦しかった。


「じゃあ、リーダーを降りる?」
システムをどうしていけばいいのかわからず、怒り泣く私に、
何度かS課長はそう言った。

だけど私がリーダーを降りたら、
今度はまた別の誰かに、
このどうしようもないシステムを押し付けることになるだけじゃないか。

「そんな、無責任なことできません」
私は毎回そう言って、不調をきたしていく体で、
リーダーを続けていた。

 * * *

この頃の私は、ずっと心の中で怒り続けていた。

無責任に放り出していった先輩に。
それを許して、その先で最高評価を与えた上司に。
先輩の作るシステムが適当な内容であることに気付いていながら開発を制止せず、
何も知らずにやってきた私に、そのプロジェクトが引き継がれるのを
黙って見ていた有識者たちに。

私は、心の中で、ずっとずっと怒っていた。
怒ることで、踏ん張っていた。
そして、体は、どんどん壊れていった。

(つづく)


次の話→"好き"と"関心"を巡る冒険 第二章 前編 vol.6 - Sato’s Diary
全話リストはコチラ