エヴァを終わらせてきました

シン・ヱヴァを鑑賞してきました。


庵野監督が、
きちんと終わらすことのできなかったエヴァを、
きちんと終わらすために作られた作品なんだろうなぁ、
なんてことを観ながら思った。


シン・ヱヴァが始まった時は、
「TV版で本来やろうとしていたことをやる」
という話をどこかで聞いて、
そして『序』と『破』の雰囲気から、
トップをねらえ』や『ふしぎの海のナディア』のような
テンポの良い活劇で行くのだろうなぁ、と思った。


トウジはエヴァに乗らず、
レイは助け出され、
サード・インパクトは起きたけれど、
『破』の次回予告では、青空の元、みんなが元気に飛び回っていた。


だけど、
『Q』で再び方向が、あれ?っとなって。


Qの公開時期が2012年なので、
監督の心境的なものもあったのかな、と
昨夜、AmazonプライムでQを観ながら思った。
(Qは観てなかったので昨夜初めて観た)


「誰も死なず、傷つかず、
 みんなでハッピーエンドの大団円……
 そんなの嘘だろう」
そんな気持ちに監督はなったのかもしれない。


エヴァは、
どうしても気持ち良く進めることのできない宿命を
背負ってるのかもしれない。


その後、庵野監督は、
風立ちぬ』の声優をしたり、
シン・ゴジラ』の監督をしたりして、
煮詰まっていた気持ちがリフレッシュされた、
みたいなことが書かれた記事をどこかで読んだ気がする。


そうして迎えた今回のエンディング。


TV版、最初の映画版、今回のシン・エヴァ
3つのエンディングの中では一番、
後味の良いエンディングだったとは思う。


紆余曲折しながらも、四半世紀を経て、
ようやくつけた落としどころがここだったのだろうな、と。


 *・*・*・*・*

TVオンエア当時。


物語が後半になるにつれ、
数十秒のフリーズシーンが頻出するようになり、
「これ、制作の進捗は大丈夫か…?」
と毎週の放映終了後、
パソコン通信のアニメ掲示板の常連さんたちと気を揉んでいた。


そして完全に物語の体を捨てた最終話直前の25話放映後、
呆然としながらも、
「いや、でも、ナディアの復活劇の前例があるし…!」
と最終話に一縷の希望を託していた。


同監督作の、1989年放映の『ふしぎの海のナディア』。
そのシリーズ後半の通称「島編」。
予算や納期の関係から、海外に外注したら、
ひどい絵の出来栄えで、ヤケになった監督が、
「絵に合わせて、物語も崩してしまえ」
と、ストーリーもキャラ設定も大きく崩した。
実に12話に渡って、崩れに崩れた話が繰り広げられた。


ただ、その代わりに残りの全精力をラスト5話につぎ込んで、
ラスト5話は物語も絵も見事に復活を果たして、
大団円で幕を閉じた。


その復活劇の再来を願うも、
TV版のエヴァは、伏線回収も、物語の体も捨てた、
前代未聞の形で終わりを迎えた。


ただ、きちんと終わらなかったからこそ、
ここまで有名になった感もあり。


 *・*・*・*・*


私は、TV版の前半が好きで、
一番好きなシーンは、
第4話の駅でのシンジ君とミサトさん
「ただいま」「おかえりなさい」
のシーンだった。


だから、シン・エヴァで、このシーンが削られて、
全体的にミサトさんの立ち位置が脇役に回った感じがした時に、
「今回のエヴァは、
 私が好きだったエヴァとは色が違うのだろうなぁ」
と思い、Qは観に行かなかった。


でも結局、今回映画を観ることにして、
それはなぜかといったら、
「私も、終わらすために観に来たんだなぁ…」
と観ながら気づいた。


今回は、ストーリーそのものよりも、
庵野監督にとってのエヴァ
について勝手に思いを馳せながら観ている自分がいた。


ナディア放映時の監督の年齢は29歳。
エヴァ放映時は35歳。
「もしも自分が庵野監督の立場だったら、
 あそこまでの思いきった舵切り、決断をできるだろうか」
てことを、プロジェクト型の仕事柄か、
社会人になってから時折考える。


色々な制約やアクシデントがあって、
自分の最初の想いを実現できなかった時、
そこからどうしていくのか、
自分を納得させるためにどういう選択をしていくのか。


やり直しを選んでも、
年月を経るうちに、
自分を含めた人々の思いや考えも移ろっていく中で、
どう収束させていくのか。


そうして、
庵野監督が辿り着いた彼なりの答えが
今回の映画なんだろう。


劇中に何度か出てくる”希望”や"落とし前"という言葉と、
その意味するところ。
変わる選択と、
それでもやっぱり変わらない選択。


劇中で示されたそれらが、
私たちや過去の自身へ向けた、今の監督の答えなんだろうなと思った。


だから、その答えを「そうか」と受け取って、
それで私にとってのエヴァも終わりなんだろうな、と。


 *・*・*・*・*


というわけで、
ストーリーについては、あれこれ言及せずに
ただ受け取って終わりに致したいところではあるのだけど。



ただ…
どうしてもね…
一つだけね……


なんでミサトさん、ネモ船長の真似事してるんだろう?
ていうのがね。


(※以下、ネタばれあり)


Qでの登場時、思いっきり、
ニュー・ノーチラス号のテーマ曲のアレンジが流れてるし、
ヴィレの隊員の中にネモ船長の声の人がいるし、
今回の最後の旧型動力部分を切り離す流れとかも、
完全にナディアのパロディじゃないか!
ていうところがね…。


なんかヴィレクルーによるノーチラスごっこが展開されてる感を
どうしても感じてしまって、
ミサトさんが、
ミサトさんの言葉を喋っているように感じられなくて、
ネモ船長の台本を読んでますか?みたいな感じがして、
なんかそこだけがね!どうしてもね!!


「Qでノーチラス号をパロる方向に舵を切ったから、
 最後までそこは貫くぜ! それが俺の落とし前だ!」
ていう庵野監督の声が聞こえる気もするのだけど、
私、ミサトさんが一等好きだったからさ、
ミサトさんのような女性になりたいと思ってたからさ(なれなかったけど)
だから、どうしても、どうしても、
そこだけが、自分の中で収まらないんだよーーー!


彼女の最後の台詞が「生きろ!」ではなかったところが、
監督なりの一つの落としどころかなぁとは思うのだけど。


わけわからない形で終わったTV版と、
「気持ち悪い」で終わった旧映画版と、
前2つと比べれば気持ちよく終わったけど
ミサトさんがネモ船長化して終わった今回と。


どう自分の中で落としどころをつけて
消化すればいいのかなーーーっていうところが、
未だに、モヤモヤしております。


加持さんとミサトさんだけは、やっぱり死んじゃうんだなー、
と思いつつも、
可能な限りの人々が生き残るエンドを選んだ監督が、
ミサトさんに最後託した役割は、とても大きなもので、
全作通してキーパーソンで在り続けてくれたことは、
やっぱり良かったかなー、と思う気持ちもあり、
ぐるぐると。


 *・*・*・*・*

自分の納得感はともあれ、なんか久しぶりに、
心の中に何かぽっかり空いた感じがして、
そういえば昔、好きだった漫画やアニメが終わった時には
こういう感じがしていたなぁ、ということを思い出した。


これまでの2つの終わりの時には感じなかったそれを、
今感じているってことは、
自分は今回を、確かに”終わり”として認識しているんだなぁ、
と実感する。