人を繋ぎ止めるもの

金曜日は、同じ部署で定年退職されるHさんの送別会でした。


よくよく考えてみると、
定年退職される人の送別会に出席するのは初めて。
転職で辞める人の送別会は、数えられないくらい経験したけど。
(それも、どーよって話だけど)


それで、なんか、ふと、
「一人の人間の、会社における人生」
みたいなものについて、少し思った。



人を、その場所に繋ぎ止めているものって何だろう?
て、昔思ったことがあって。


仕事の愚痴とか、会社の悪口とか言っていて
実際、大変そうにしている上司とか先輩社員とかを見て、
それでも、何でこの人達は、この会社に残っているんだろう?
て不思議に思って。


養わなきゃいけない家族があるとか、
転職する勇気がないだとか、
そういうことも、もちろんあるんだろうけど。
でも、そういうことだけが、
この場所に留まっている理由なんだろうか、と。


だけど、ある時、
“思い出”なのかもな、と思った。
その場所に繋ぎ止めているもの。


あの時は大変だった、とか、
誰それがあんなことしてさぁ、とか
そういう話を楽しそうにしてるのを見て、
あぁ、そういう思い出があるから、
何のかんの言いながらも、ここに留まっているのかなぁ、
て、思えて。


飲み会とかの場で、
昔一緒に仕事をした者同士で集まって、
思い出話をしている姿は、
本当に楽しそうで。


昔話ばっかしてさぁ・・・と思わなくもないけど、
でも、こういうことが、
ここに繋ぎ止めている理由のひとつになっているんだろうなぁ、
と、横で聞きながら、思ったりして。


だけど。


その思い出を共有できる人たちは、どんどん減っていく。
年を経るほどに、同じ思い出を持つ人たちは周りからいなくなっていって。
そして退職する頃には、ほとんど誰もいなくなる。



送別会の最後で、
幹事のKさんに、「好きなだけ喋っていいですよー」って言われて、
Hさんは、45年前に入社した時からを振り返って話し始めた。


その場にいる、ほとんどの人たちが知らない話。
ほとんどの人たちが、興味なさそうにしていて、
それをHさんもわかっていて、
だけど、目を輝かせて、40年前、30年前、と思い出を辿っていく。


そうだよな。
て思う。
もう知る人がいなくなっても、その思い出が、
Hさんを45年という歳月、ここに繋ぎ止めてきたもので、
そして、45年という歳月の積み重ねそのものなんだもんな。


誰も興味なくても、それでも最後のこの日に、
話したかったのだろうな、と思った。



私にも、仕事に関する少なからずの思い出はあって。
一番の思い出を共有できる人は、あと少しでみんないなくなる。
“今”の思い出を一緒に作り上げていっている人たちも、
私より先にいなくなる。
そうして、いつか一人になって、退職を迎えるその時に、
私はいったいどんな想いを抱えて、終わりの場に立つのだろうな。。。


なんてことに、ふと想いを馳せた
社会人10年目(!)の春でした。


まぁ、まだまだ走るけどねっ。