仁義なきキリスト教史

仁義なきキリスト教史

仁義なきキリスト教史

「おやっさん、おやっさん、なんでワシを見捨てたんじゃ!」
キリスト教二千年の歴史が、いま果てなきやくざ抗争史として蘇る!


母校の聖書科のシミタダ先生には眉をひそめられそうな気はするけれど、
母校の指定推薦図書にしてもいいんじゃないかと思うくらい、なかなかの良書でした。


最初、「聖おにいさん」ばりのパロディかと思って読み始めたのだけど、
キリスト教というものをどうしたら日本人に理解しやすく伝えられるか、ということに
かなりまじめに真正面から取り組んだ内容だった。


真正面からキリスト教に取り組んだ本書の目次↓

第1章 やくざイエス
第2章 やくざイエスの死
第3章 初期やくざ教会
第4章 パウロー極道の伝道師たち
第5章 ローマ帝国に忍び寄るやくざの影
第6章 実録・叙任権やくざ闘争
第7章 第四回十字軍
第8章 極道ルターの宗教改革
終 章 インタビュー・ウィズ・やくざ

プロテスタントの学校に通っていた中高の頃、
聖書を読んで何よりも感じたのは、
「なんでこんな身勝手な神様を崇めてるんだ?」
てことだった。


罪のないエジプト人の子供を大量虐殺するし、
それを別に反省もしていないのに、世界中に神の愛を広めよう、
とか言い始めるし、
自分に忠誠を誓っている男のことを疑って、お金奪ったり、病気にしたり、
超理不尽な目に合わせて、それでも自分のことを信じ続けるか試すとかいう、
どこのヤンデレな恋人ですか、みたいなことしてるしetc...
なんでこんな身勝手きわまりない神様のことを崇めるのかも、
人間たちが罪の赦しを乞う展開になるのかも、
さっぱり、ちんぷんかんぷん。


大人になった今では、
「まぁ、そんな物語の細かいところにイチイチつっかからずに、
 良いところだけをエッセンスとしてかいつまんで、
 取り入れていけばいいんじゃない?」
と思えるのだけど、曲がったことの許せない思春期真っ盛りの私は
学年末テスト の聖書の答案用紙に、試験の答えの代わりに、自分のそういった疑問の数々を書き連ねて
先生に問いかけてみたりもしたけれど、
返ってきた答案用紙には大きく「?」マークが書かれているだけだった(^^;


そんなわけで、キリスト教というものについて消化不良のまま学校を卒業して時は過ぎていたのだけど、
このたびこの本を読んで、長い間、もやもやしていたアレコレが、
「そういうことだったのか!」
と、一気にすっきり目から鱗が落ちた。


最初、ただのパロディかと思った「キリスト教徒=やくざ、神様=やくざの大親分」という設定が、
実に絶妙でね。


たとえば、安息日というのは、神様が定めた休日なのだけど、
「安息日に薪を拾った人がいたら、その人を石で殴り殺せ」
とかいう意味不明な神様からのお達しが聖書にある。
これが、やくざのエピソードになると、
「家畜や奴隷を哀れんだ情に厚い大親分が、彼らに定期的な休暇を与えるために
 安息日を制定したけれど、そこは根っこが苛烈なやくざ者だから、
 自分の命令を無視して安息日に薪を拾った男がいたら、
 烈火のごとく怒って、民衆に命じてその男を石で打ち殺させた」
という話になるわけだ。
聖書で神様のこととして読んだときには、
「は!?( ゚д゚)」としか思えなかった話が、
「ちょ、親分www(>▽<;」てなるわけだ。


無茶苦茶な大親分の侠気に惚れ込んで、ついていくぜっ!てなる人もいれば、
従わなきゃどんな目に遭うかわからないから仕方なく従う人もいる、
ていう構図も何だかすんなり理解できるし。


ユダヤ組とキリスト組の間の抗争や、後のキリスト組内の派閥抗争も、
カタギの人間(=現代の日本人)から見たら、すんごくどうでもいいくだらないことで
争っているようにしか見えなくても、
当人たちにとっては、メンツとか信義に関わる重要な問題で、互いに譲れなくてドンバチやってる、
ていうのも、理解はできなくても、そういうものかもね、てすんなり思える。


日本人にとって、
「理解はできないけど、そういうものかもね」
て思えるものとして、「やくざ」というアイコンは、とても具合がいいのかもしれない。


あと、イエスや使徒たちの話を、歴史の中の一コマとして描いているのも、
目から鱗だった。
確かに、よく考えてみれば、イエスの生きていた時代って、
中国の春秋戦国時代よりも300年も後の時代で、これはもう、神話の時代ではなく、
普通に歴史の中の一時代だよな。
新約聖書って、やたら手紙が多くて、読んでて退屈だったんだけど、
そうか、あの手紙って、よく歴史資料館にある「○○が○○に送った手紙」とかと
同じ歴史資料だったんだな~。


そんな感じに、20数年来の聖書やキリスト教に対するモヤモヤを一挙に晴らしてくれた
とても良い一冊でした。