プラネタリウムのふたご

プラネタリウムのふたご

プラネタリウムのふたご

プラネタリウムのふたご』を読み終えました。


同じ作者が書いた『麦ふみクーツェ』を以前読んだときも思ったけど、
この作者の書く物語は、輪郭がない。
輪郭がないことを受け容れて読んで、初めて染みとおる。


麦ふみクーツェ』を読んだときは、
最初、こういう話を読むのに慣れてなくて、
「この作者は一体、何を言いたいんだ?」
ってイライラした。
でも、最後まで読んだとき、何となくわかった。
どこかにクライマックスがあって、そこに向かって繋がっていくとか
そういうのではなく、話全体で、ひとつの世界が作り上げられていて、
もしも作者に伝えたいことがあるとするなら、
その世界に漂う空気、空気の中に漂う粒子のようなものなんじゃないかって。


プラネタリウムのふたご』は、
星明りのない村のプラネタリウムで拾われた双子と
その周りの人々の話。
星の見えない村、そこのプラネタリウムで毎日語られる星の物語、
熊狩りの儀式、村はずれに住む老婆。
世界を転々とする手品師の一団、つむがれる一夜々々の奇跡。


作中に、双子の片割れテンペルの手品について評する記者の言葉として
こんな言葉があった。
「まったく意味のない筋立てである。しかし…(略)…意味をもとめようという気が
わたしにはおきない。意味以前の、おおきなかたまりとのつながりを、
からだの底に感じてしまうのだ」


物語のひとつひとつに意味はない。
だけど、読み終えたときに、
「おおきなかたまりとのつながりを、からだの底に感じ」られる、
そんなお話です。